宮木康隆のエッセイ集

tomo essay

04 20世紀ダンス教師


1967年大学のダンス部に入って、初めて社交ダンスを習った。高校時代は東京と横浜のディスコに通っていた。
モンキーダンス、サーフィン、スイム、が終わり、高2の時にアメリカからゴーゴーが入ってきた。
ディスコに行って外人、特に黒人の新しいダンスを見て、覚えて帰ってきては、次の日から鏡の前で練習していた。
ファッションはリーバイスの細身のカラージーンズにスニーカー、IVYスタイルといわれるものだった。


大学に入学した時、このマンボズボンをはいていたからクラブ活動をするようには見えなかったらしい。
4月の新入生ガイダンス、どこのクラブも声をかけてくれなかった。
だからダンス部の練習場所を探して入部した時は6月の末だった。
最初に習ったのはタンゴのルーテン、僕に教えてくれたのは、同じ4月に入部したばかりの1年生だった。
その程度のダンスだった。ジルバもスクエアールンバもマンボもブルースも習った覚えがなかったけど、夏には踊れていた。
また当時は僕の周りにキューバンルンバやチャチャチャは踊れる人がいなかった。


大学2年の時ダンス部でダンスホールへ行った事がある。フロアーの中央は薄暗くて人が蠢いていた。
ホールの中央部分へほとんどのカップルが集まり、移動しないで揺れるだけのダンスをしていた。
外側の場所では、大きくブルースを踊るスペースもない。
そんなに窮屈だったのに、隣の人とホールドがあたることはなかった。 
それは、ダンスパーティでも同じだった。ダンス部主催のダンスパーティに参加したがジルバが踊れれば怖いものなし。
ダンスはその場で揺れるだけ。そんなパーティがかなり開催されていた。でも人はかなり集まった。
毎回何百人と集まった。私でさえ毎回50枚以上のパー券が売れた。


1993年末、日本のダンス界は分裂した。
1994年AJDT/DSCは21世紀を見据えてダンス教師のあり方でJBDFと対立した。
AJDT/DSCの当時若手が集まって、助川友朗を中心として予言の書を作成した。


① 地方からダンスは外見重視で同じルーテンを習うことになる人が増える。
② 東京からダンスを習う人が減り、地方に広がってゆく。
③ これから社交ダンスは一般庶民とどんどん離れてゆく。そして10年後にダンス界は、滅びてしまう。
④ 10年後に、この状況に立ち向かうためAJDTが立ち上がる。


21世紀に入りダンス界はみな危機感を持っていて、JBDF学校教育に社交ダンスを組み入れた。
JDCは国際競技会を盛んにしてダンスを盛り上げようとしている。
ダンスホールは競技ダンスを普及して底辺を拡大しようとしている。
正しいスポーツダンスを普及させようと必死になっている。
救世主になるはずのAJDTは、正しいダンスのレベルを下げている最悪の団体と見られている。
学校教育から始まり、日本全国に正しいダンス推進委員会は目を光らせている。
正しいダンスを教えていない人を見つけると、その人の生徒にも話しかけて正しいダンスを進めて、先生を洗脳し始める。
徹底的に正しいダンスを叩き込む。それがあなたのためだといって。正しいダンス万歳。
ダンスを生活の延長でみんなが踊る世界を作るため、われわれは考えられるあらゆることをしてきたが、
いまや正しいダンスを邪魔する悪党になってしまった。さらに正しいダンスは中国にも移り世界制覇を狙っている。
今やどんな初心者でも高齢者でも正しいダンスを踊らなければならない。
正しい立ち方、正しいホールド、正しいフットワークを先ず身に付けなければいけない、音楽は置いといて。


私は、1979年、英国のダンス教師協会教師協会のディナーダンスパーティに参加した。
その時ロンドンにいた日本人ダンサーは全て参加している。プロのデモがありディナーがあり、ダンスタイムがある。
ディナーが終わって、英国のダンスの先生は、ダンスフロアーに溢れて踊っていた。
ワルツのスピンターンが踊るスペースはない(スピンターンは後ろに戻るからぶつかる)
ナチュラルターンとチェンジステップだけでみんなダンスを楽しんでいる。
世界のファイナリストはもちろん審査委員もコーチャーも英国の一般ダンス教師も私も楽しんだが、
ダンスにおいて絶対的価値は、音楽にあわせることと、
隣で踊っている人とぶつからないことを学んだ日本人のダンス教師は多いと思う。
この二つは絶対的価値だから正しいも正しくないもない。
音楽にあうかあわないか、人にぶつけるか、ぶつけないかのどちらかでしかない。
正しい音楽のあわせ方も、正しいぶつかり方もない。


社交ダンスを普及させようと、正しいダンス、スポーツダンスの普及は急速に行われている。
それでも洗脳されないダンス愛好家は、1%はいるはずだ。ダンス人口100万人なら1万人はいるはずだ。
早く正常なダンス愛好家を取り戻さなければ、誰とでも踊れるダンス人口が99%で、選手は5000組の1%に。
私が始めてダンス教習所に行ったのは1968年、助川ダンス教室だった。
今のビルを建てているときで五反田と渋谷、二つの教室に分かれていた。
次の年、今の助川ダンス教室が戻ってきた。当時のダンスは娯楽だった。
ボーリングは高校生の時始まり。私が大学生の時に大きなボーリング場が次々と建ったけど、
それから3年ぐらいから下降線をたどり、あっという間にボーリング場は1割ぐらいに減ってしまった。
ダンス教室はものすごい勢いで増えたが、2004年をピークにどんどん減ってゆき、
ボーリング場のように1割に減ってしまうのか?
予言の書ではそう書かれている。
でも正義は死なない。我々の反撃が2005年春から始まる。
AJDTの会員しかできないダンスの反撃である。勝利を誓って。


2005年