宮木康隆のエッセイ集

tomo essay

05 鹿鳴館ダンス


明治16年11月に完成した鹿鳴館は、ダンスばかりでなく日常生活全ての欧化運動だったが、
この運動は一般市民のものではなく、華族等の限られた特権階級のものであった。
この運動は欧米と結んだ不平等通商条約を打開のため必要なものであったため、
時の外務大臣 井上馨、総理大臣 伊藤博文などが先頭に立って、ダンスをはじめ様々な欧化運動を勧めた。
当時のダンスは誰が教えどのように踊られたかは、記録にはないが、
明治15年11月3日 天長節に外務大臣宿舎で行われたダンスパーティの
ダンスカードに書かれているダンスの種類は以下の7種目である。
ワルツ(Valse)、ポルカ(Polka)、ランサーズ(Lancers)、マズルカ(Mazurka)、
カドリール(Quadrill)、シコティッシュ(Schottische)、ギャロップ(Gallop)


AJDT代表の浜田先生から借りたダンスの本、明治36年7月15日に発刊された最新舞踏全集によると、
上流社会の西洋遊戯でビリヤード、フットボール、テニス、野球はその仕方はほとんど同一の方法で行われるが、
ダンスは必ずしも各地同一で行われていないと書かれている。
この本によると、当時のダンスは、方舞と円舞に分かれており、方舞はカドリール、ランサーズ、コチロン
(東京の駒場高校でいまだに受け継がれ、創立100周年記念でコチロン大会が行われた)で、円舞はポルカ、
ラインレンダ(歴史的ダンスとして講習で紹介した)、シコッテシュ、マズルカ、ワルツ、ギャロップ、
メヌエットとして踊り方が紹介されている。


明治時代のダンスパーティにおけるマナーについては日本遊戯調査会、調査委員で編纂された、
ダンスパーティに出席するものの注意要項の概要は以下のとおりである。
1 男性は燕尾服、女性はこれと同等の服(無地)を着用すること
2 ダンスパーティは開催時間があるので、注意すること。
普通ダンスパーティは夜9時に始まり12時に終わる。あるいは9時に始まり翌日午前2時に終わる。の2種類がある。
3 知人と会ったときは脱帽して会釈すること。決してポケットに手を入れたまま談話してはならない。
4 会場において、紹介無しに初対面の人に対して無理に躍らせることをさせてはいけない。
5 紳士は淑女に対し会釈し、談話は男性から始めること。ただし初対面のときは、目下のものからまず姓名を告げる。
6 言葉、振る舞いは、故意に飾りつけて、タメ口で話したりそのような振る舞いをしないように。
7 パーティでは、夫婦連れ添って踊るようなことは遠慮しなさい。兄弟姉妹も同じことです。
8 パーティ会場では握手の礼を取らなくてもよい。もし握手しなくてはならないときには目下のものから先にする。
9 内緒話は不快を与えるから非礼である
10 紳士が淑女と同道して会場に上がるときは、先に導きて上る。また下りる時は追従しておりること。
11 パーティに参加するものは、香りのする菓子類を食べてもかまわない。
会場内において喫煙してはならない。もし耐えられないときは喫煙室にて喫煙し、必ずうがいをしてから入室すること。
12 手袋は白、もしくは淡い色のものを用いること
13 靴は黒の短靴(カンガールーの皮で出来たもの)で、服が白い時は白色の靴にすること。
14 飾り襟は必ず白にすること。


最新舞踏全集の序文によると、ダンスは国や地方によってスッテプが違うので、正しい踊り方はない。
しかし人との出会いによって品行を高め優美な風采を保つために非常によい教材となると、書かれている。
明治時代のマナーと平成のマナーは少し違うかもしれないが、
ダンスを教えることはステップ教えることではなく、マナーを教えることである。と言う様なことが書かれている。
AJDTの会員は英国スタイル・ダンスのほか、ワールドスタイル・ダンスを踊れるので、
ダンスは1種類の踊り方だけではないことを知っているので問題はないが、
AJDT以外の教師はアマチュアを含め非常に偏っているといわざるを得ない。
時代によって、国によってマナーとなる事柄は違うかもしれないが、マナーの基本は相手を気遣うことから生まれる。
ダンス教師として一番大事なことは、ダンスを通じてパーティなどの人が集まるところでの、マナーを教えることである。
ステップを知っている数より、音楽に、リズムに乗って踊ることのほうが、
相手はダンスを楽しめることを知ってもらいたい。
相手を気遣うのなら、まず音楽に乗って踊ること、
周りの組とぶつからないこと、これが踊るときの最低限のマナーです。


鹿鳴館が出来て様々な欧化が行われたが、果たして不平等通商条約の改正はなされなかった。
明治政府の行った欧化政策は意味を成さなくなり、鹿鳴館ダンスは消えてしまった。
しかし建物は昭和8年まで存在しており、ダンスは外国人の楽しみとして表に出ることなく踊られていた。


2006年