宮木康隆のエッセイ集

tomo essay

06 ルネッサンス


昨年11月24日ドイツに行く飛行機の中でダビンチコードのDVDを見ました。
すでに本は春に読んでいたのであらすじとイメージは私なりに出来ていましたが、
映画で確かめることが出来て参考になりました。
わたしは高校、大学がミッションスクールでしたのでキリスト教のことはある程度知識はありましたので、
それほどのショックも無く理解することが出来ました。
しかしダビンチのいた時代のルネッサンスについてはあまり良く理解できていませんでしたので、私なりに調べてみました。
ルネッサンスとは14世紀から16世紀にかけてヨーロッパで起こった古典古代の文化を復興しようとする諸運動を言い。
その思想は歴史を冷静に分析して本来あるべき姿を保持し続けるにはどうすべきか考える、
日本で言う温故知新のようなものなのでしょうか。


これによってキリスト教会が一方的に押し付けてきた考え方に反発が起こりました。
たとえば巨大聖堂建築のため免罪符を売って資金稼ぎをしていたキリスト教会に対して、
活版印刷の発明により原語を訳した聖書が一般に普及し始め、
マルティン・ルターの「個人が聖書と向き合うべきである」という、個人思想が起こり、宗教革命がおこりました。
カトリック派とプロテスタント派の分裂です。
また、中国から羅針盤と火薬が伝わり、
分裂騒動に渦中でカトリック教会は新しい信者獲得のため大航海時代に突入していきました。
このことにより、アフリカの黒人は神が与えた奴隷としてアメリカにある各国を滅ぼし、
アフリカ民族の音楽とヨーロッパの各強国の音楽が融合しわれわれの踊るダンスのもとである音楽がうまれました。
英国スタイルの10種目だけに絞ってもワルツとパソドブレ以外は全部、アフロのリズムが流れています。


日本にも1543年種子島にポルトガル人が来て鉄砲を伝えたのは皆さんも知っていることだと思います。
さらに1580年、織田信長のお墨付きで九州と安土城の隣にセミナリヨと呼ばれるラテン語と
日本の古典を学ぶイエズス会の教神学校が出来ました。
セミナリヨは3階建ての建物で本能寺の変の後、破壊され、
わずか2年間しか建っていなかったそうです。現在は公園となっています。
イエズス会とは、16世紀のキリスト教カトリック派に対抗して生まれたプロテスタント派に、
カトリック派の1つとして1534年に創立され、創始者が騎士だったため、
キリスト教宗派としての厳しい戒律を守り、
ルネッサンス時代の世俗性にどっぷり漬かっていた当時の教会とは無縁の組織だったといわれています。
布教と教育を目的とし修道会として現在に至っています。
イエズス会の創設者の一人であるフランシスコ・ザビエルは
日本に1549年に上陸し日本国王に会うため京に向かったのですが、足利幕府の権威は失墜し、
京は戦乱で荒れ果て会う事を断念せざるを得ませんでした。
そして1551年にザビエルは日本を去ることになったのです。その後残った宣教師は信長の保護を受け布教を続け。
1582年、九州のセミナリヨから選ばれた天正遣欧少年使節4名の特使が組織され
九州キリシタン大名の名代としてヨーロッパに向かいました。
彼らは1584年ポルトガル、リスボンに到着。そして1585年3月イタリア、メディチ家の舞踏会に参加、
どうもそこでダンスを踊ったらしいのです。日本人で最初に舞踏会に参加したのは、この少年使節団の4名らしいです。
16世紀ヨーロッパの宮廷で踊られていたダンスはパヴァーヌという行列舞踏と
早い3拍子で踊るガイヤルドが主流だったらしいのですが。
パヴァーヌはポヴォーダンス(孔雀ダンス)と言われる行列舞踏で、
当時のイタリアの宮廷作法にあったものだったようです。
現在では時々結婚式のとき使われる歩き方(hesitatino step)として残っています。
ドイツへ研修に行くと、時々ガボットとかポロネーズなどを踊らされますが、
スタートは、プロムナードと呼ばれるこの歩き方から入ることが多いです。


当時の舞踏会では、時々即興のダンスがデモンストレーションのかたちで踊られていたそうです。
「アルボーのフランス語のダンス指南書『オルケソグラフィー"Orchésographie" 』によると、
パヴァーヌは王侯貴族のための踊りで、たいてい即席の舞踊であり、
踊り手は自由自在にステップを飾り立てることができた」。と書かれています。
その即興ダンスを日本の天正遣欧少年特使はメディチ家の舞踏会で踊ったとされています。
彼らが日本に帰った1590年は、すでに豊臣秀吉の時代になっており、
1587年バテレン追放令がだされていたため九州、近畿に15万人いたキリスト教信者は激減し、
キリスト教宣教師は九州に追いやられていました。
彼らが持ち帰ったのは、ドイツ、マインツで生まれたグーテンブルグ印刷機、
西洋楽器、海図だったと記録が残っています。
また1591年京都聚楽第に招かれて豊臣秀吉の前で西洋音楽
(初期のルネッサンス音楽)を演奏したと言う記録も残っています。
NHKの「巧妙が辻」を見ている人は解ると思いますが、
豊臣秀吉はこの年1591年12月に甥の豊臣秀次に関白と聚楽第を譲り渡しました。
その後、ダンスをはじめて踊ったその4人組は、殉教したり、国外に逃亡したりして、
日本では決して認められない悲しい最後を送っています。
が世界のほとんどの宗教も同じですけどキリスト教は、自殺は認められていませんので、
殉教者以外はそれなりに、国外で人生を送ったと思います。


さてダンスのルネッサンスを思うと、
ダンスを教える者として、ダンスの歴史を学び、ダンスの本質を冷静に見つめなおすことは常に必要で、
英国で生まれた競技ダンスだけに偏重した考えを元に戻す必要があると思います。
ルネッサンスの思想はダンスの本質を忘れないために今でも重要な考え方だと思います。
様々なダンスを学び、ダンスの歴史も勉強して、それがダンス教師試験の中に含まれているのは、
ダンスの本質を忘れずに時代に合ったように絶えず改革していくと言うことだと思います。
まさにAJDT/IDCの考え方は、そこに立脚しているすばらしい思想だと私は、思っています。
イエズス会は現在では上智大学を経営しているということです。興味のある方は、ぜひ調べてみてください。
私が調べられなかったこともわかると思います。 「たたけよ、さらば開かれん」です。


2007年