宮木康隆のエッセイ集

tomo essay

09 浜田先生を偲ぶ


ダンシング・ブラザースの新年会は、熱海のホテルで行われていた。
今から35年くらい前からダンシング・ブラザースの新年会は毎年熱海のホテルで行われることが多かった。
朝からダンスコングレスが行われ、夜に宴会、1泊して帰るものだった。大勢人の集まる宴会が苦手な私は仕方なく参加していた。
もちろん参加は、教室のオーナーの強制であり、ダンシング・ブラザース会員の義務である。
私がプロになったころには、ダンシング・ブラザースでの新年会などのイベントの司会は浜田純一先生がすることが多かった。
その頃の私はダンスを教えることより、競技会にしか興味がなかったので、新年会の壇上で浜田先生が毎回必ず言う、
世界の著名人の引用の話は残念ながら何一つ覚えていない。まったく興味がなかったし理解できなかったからだ。


私がダンス教師の道に入ったのは、学生時代ダンスを習っていた浅野先生に声をかけられたのがきっかけだった。
大学1年の秋、渋谷道玄坂にある助川ダンス教室に先輩に連れられて行ってカップルレッスンを始めて受けたのが、浅野先生だった。
当時助川ダンスは、新教室建て替えのため、五反田と渋谷に教師を分けて営業していた。
その後、新教室が出来上がり五反田でレッスンを受けることになるが、
浅野先生が独立するときに、スタッフ確保のため私に声をかけられたのだと思う。
そんなわけで私は助川五郎率いたダンシング・ブラザース(D.B.)に自動的に入会していた。


戦前からあったいくつかのダンス技術研究団体は、戦後おもに関東で7つの大きな団体となり再スタートした。
その中の一つダンシング・ブラザースは助川五郎を長として設立された。しかしダンス界の分裂に伴い11年前に、
毛塚鉄雄を長として分裂しニュウ・ダンシング・ブラザース(Nwe D.B.)を設立した。

浜田先生はいつもD.B.の新年会では司会をしており、『誰々いわく何々』私には全く興味のない哲学的な話をしていた。
ダンスとはどういうもので、ダンスを踊るということはどういうことで、
ダンスを教えるということはどういうことなのかを著名人の言葉の引用しながら話してくるので、
おそらく私同様ほとんどのダンス教師の方も馬耳東風だったのではないかと思う。
当時そんなことを考える人はダンス界では稀有だったと思う。私自身そんなことを考えるようになったのは、
ドイツでダンスの教え方を勉強してからなのだから。


私が競技選手を引退する少し前に、浜田先生が私と同世代のD.B.のメンバーを集めて座談会を開き、
将来のダンス界とD.B.について話し合ったことを思い出した。
その時の浜田先生は、テーマを与えるだけで自分の意見を言わずに、我々の浅はかな未来展望を聞いて
座談会は終わったように記憶している。浅はかな未来展望と言ったのは、その時の話の内容を今まったく思いだせないからである。
新年会の壇上で話している浜田先生、座談会の司会をしていた浜田先生、
当時どういうことを考えている先生なのかは、まったくわからなかった。


私が選手を引退してから間もなく、ダンス界の組織は大きく分裂して行ったが浜田先生はいつも
私が所属している団体と同じ団体に所属していた。それでも浜田先生は私のそばにいる先生ではなかったが、
助川友朗がドイツに行くようになってから、助川友朗を通して、浜田先生の思想等を頻繁に聞くようになった。
その後、AJDTが分裂して組織が小さくなってからは、講習会や理事会で浜田先生の話をじかに聞くことができるようになった。
またダンス雑誌や情報誌で浜田先生のコラムを目にしていくたびに、その知識の広さと戦後のダンス界を生きた経験をとおして、
多くのダンス教師が戦後のダンスから始まり今までに、ダンスを間違えて理解していることがたくさんあることを知らされ、
絶えず答えを探し続けることこそダンス教師として大事な仕事であり、
そして答えは時代とともに変化していくものだ。ということを教わった。


浜田先生は私がダンス教師になった時から、決して側にいた先生ではないが、いつも同じ団体の中にいて、
遠くから姿をずっと見続けた先生だった。今のAJになってから、先生の憂いていたことがなんとなくわかる気がする。
私もやっと浜田先生の向いていた方向に向かって進まなければならないと思うようになった。
ダンス界自体が昔の私と同じように、英国風ダンスだけの偏った方向に進んでいるけど、
浜田先生が孤軍奮闘してきたことをAJDTという組織で推進していかなければ、
近い将来に必ず英国のようにダンス界自体が特殊な小さな組織になって、
チャンピオンしかダンス教師として、食べていけなくなると時が来ると切実に感じている。

浜田先生がよくレクチャーで話していたダンスを踊るうえで何が大切なことなのかを思い出します。


2011年