宮木康隆のエッセイ集

 

tomo essay

16 平成とダンス


平成が今年の4月で終わりになる。
平成時代が終わり、新しい時代に変わる今年は、ダンスを仕事としている我々にとっても、時代の変わり目かもしれない。
東京に残っている二つのダンスホールのうち、有楽町にある東宝ダンスホールが今年の11月をもって閉鎖されることになる。
恐らく鶯谷にあるダンスホール新世紀も閉鎖されることになるだろう。
今営業しているダンスホールはあと名古屋にあるムーンリバーだけになると思う。
ムーンリバーは閉鎖されたダンスホールが平成26年に場所を変えて復活した。(希望の党 安井美佐子氏の活動報告から) 
大阪にあるゴールデンパレスは一見ダンスホールのようだが、貸しホールとしての営業をしていて、
色々な団体がゴールデンパレスでパーティを開催しているようだ。(詳しくは 大阪府連の天道さんに) 。
つまりダンスホールとしての営業が成り立たないということだ。
ダンスホールの営業は大正7年から(横浜 鶴見)から始まり徐々に増えていったが、大正12年 関東大震災に襲われ、
神奈川県 東京都は壊滅的な被害をこうむり、ダンスホールは関東から無くなった。
昭和に入り フランスに留学していた目加田男爵が彼の父が亡くなったのを機に昭和2年に日本帰ってきて、
フランス流の社交ダンス 主にタンゴの普及に努め、ダンスの指導、デモンストレーションを精力的に行った。
そして昭和8年までには50箇所ぐらいにダンスホールは増えていった。
しかし昭和15年になると太平洋戦争の影響でダンス禁止令が出され、すべてのダンスホールが閉鎖された。
戦後 そんな中から再び 昭和25年に埼玉からダンスホールらしきものが生まれ、東京にも数多くのダンスホールが生まれていった。


東宝ダンスホールもダンスホール新世紀も 同じ昭和44年に開業し、
そして平成の最後まで残ったのもこの二つのダンスホールのみとなってしまった。
ダンスバンドのミュージシャンも、ダンス教師もダンスホールの隆盛と衰退に伴って昭和と平成の時代に翻弄されていくことになる。
ここでその原因を考えなければならない。大正と昭和のダンスホールの衰退はすべて外圧にあり、
物理的に出来なくなっていったので原因は我々ダンス愛好家達のせいではない。
しかし平成の社交ダンスの衰退はその原因は主に内側 つまり社交ダンス専従者にあるといえる。


なぜ、嘗てのようにいっぱいいた 初心者がいなくなってしまったのか?
いろいろあるが、私が特に感じることは、主にイングリッシュ…スタイルの競技ダンスをダンス教師が教えている国と
教えてないてない国によって明らかに違いがあることだ。競技ダンスを主に教えているところは、一般のダンスを楽しむ人がいなくなり、
ダンス教室の存続が危ぶまれている。これは日本だけの話ではなく、ヨーロッパの国を見て感じるところだ。
競技ダンスを教えてない国はダンス人口の変化はあまりない。競技ダンスは確かに変化し表現やテクニックは変わっているけれども、
外から見ればそんな専門的な変化は解らないし、興味がない。普通の人は時代の流れで生まれてくる音楽には関心がある。
その音楽で踊れるダンスがあれば、ダンスを覚えてみたいと考える。相変わらず敷居は高いが、ネットなどの検索で調べることができる。

なぜ競技ダンスが、ダンスの普及を妨げるかを私なりに考えてみた。
明治時代 大正時代のダンスは、今のダンスと全く違うのであまりよくわからないが、フランス流とドイツ流があり、
フランス人やドイツ人から習っていたものと思われる。明治時代の後期にはドイツ流が主流となっていくようである。
昭和元年に英国流のもとになるものが ビクター・シルベスターによってロンドン ハマースミスパレス(2007年4月閉鎖)で行われた
競技会で踊られた。英国流と名前が決定されたのが昭和4年。その後 日本にも英国流が入ってきた。
昭和2年から目加田男爵からダンスを習い、昭和4年以降英国から入ってきたダンスを本で覚えた。
日本語訳を忠実に踊れるように苦心して踊った。敗戦後はアメリカからアメリカ流が入ってきて、ジルバやマンボが大流行した。
ジルバやフォックストロット(ブルース)マンボにスクエアールンバ(英国から入ってきた)は見様見真似でお互いに教えあって
パーティやダンスホールで踊られた。みんなダンス初心者だった。会社の主催するダンスパーティや学生の主催するダンスパーティ
そしてナイトクラブで踊られたダンスは我々AJDTで教えているダンスと同じといっていいだろう。
しかしダンス界は競技ダンスの普及を目指すようになる。一般のお客さんに、競技ダンスを教えるようになり、
競技ダンスをアマチュアサークルで教えるようになる。そしてプロの先生が主張してくるようになる。
ダンスについてステップの名前やフットワークやホールドの形など専門的な知識が増えてゆき、
さらに選手の名前とかクラスとか所属まで共通の話題になり、ダンスを踊るものにとって当たり前の知識となっていく。
映画『シャルウィダンス』を見ればその姿がよくわかる。今考えるとその当時が、ダンス人口がもっとも多い時だったと思う。
そこから初心者が増えてこない。それもそのはず、マニアックなダンス愛好家で埋め尽くされてしまったのだ。
ダンスは難しくなり 理屈や知識で踊るようになった。そこへ多くの初心者は入っていけなくなり、ダンスを習うのを諦めるようになる。
当たり前の出来事が起こっているのを、ダンス界は気が付かない。初心者が増えないのではなく、入ってゆくことができないのだ。
初心者が入っていけるダンス環境を作ればきっと解決できると思う。
それが出来るのが我々のダンスの指導法なのだから。

私はロイヤル60‘sクラブを3つ指導しているが、今50名弱の会員がいる。
ほかのサークルよりもダンスが易しいとか、音楽をかけて踊れるとか、
他のサークルから移動してきた人と初心者と一緒にダンスを楽しんでいる。
もちろん易し過ぎるといってやめていく者もいる。
最後にダンスホールが無くなれば、生演奏で踊るチャンスは極めて少なくなる。
時には助川ダンスのパーティでエスメラルダの音楽で踊るのも一興だと思う。


2019年