助川友朗のエッセイ集

tomo essay

02 頭の改革

変えよう、と考えてから10年の歳月を重ねました。残念ながら目に見えての変化はないように思えます。

我々の考えが違うのか、やり方が悪いのか、試行錯誤を繰り返す今日この頃です。

我々の愛すべきダンスをもっと広げたい、もっともっと多くの国民に分かってもらいたい。出発はそこでした。 社交ダンスとは、「何」か?いきつくところ必ずそこへ到達します。

人は何故ダンスをやるのか?何故ダンスが楽しいのか?何故ダンス教室やダンス教師の処まで足を運んでもらえるのか?

しかしながら現状、相手がいなければ成り立たないはずなのに、相手と踊れなかったり、相手を不愉快にしたり、無理やり教えて嫌がられたり、勝手に踊って嫌われたり、10年間もやっていて全くリズムが取れなかったり、こうも色々と発展を妨げる現象が生じるのでしょう。

私達は教え方が悪い、教える方の責任でそうなる、そのようなことが起こると考え、教える側の考え方の変革と教え方の改革に乗り出しました。

しかしながらこれが又難しいのです。何故難しいかというと、今現実に起こっているダンスの問題点の多くの原因は戦後作られた「日本人の問題」に他ならないからです。


教える側の責任は重いと思いますが、教わる側の責任でもあるのです。何故教わる側にも責任があるかというと、教わる側即ち日本人の思考方法に問題があるのではないかと考えます。 今年は終戦60年にあたります。


敗戦の焦土の中から日本は凄まじい発展を遂げて来ました。そしてその間日本人は新しい倫理観と正義を確立し成功を収めました。


この成功体験からくる、「日本人の考え方」に実は問題があろうかと思うのです。 ダンスを習いにこられる方と話をするのですが、多くの方が「物事を行うには、先ず基本ですね。自分は初心者だから基本を習いたい」といわれます。


誠にその通りだと思うし、正しいと思います。 が、しかしここで言う「基本」とは何かという問題なのです。

どうも基本のステップや基本の身体の動きを指している様に思えるのです。どうも形に表れるものを指しているように思えるのです。

最も基本的な事とは、物事に対する考え方が一番重要なのではと思うのですが、どうもそこへ行かないのです。ダンスが踊れるようになり、楽しめる様になり、又より上達する為には、考え方が一番重要ではないかと思うのですが。


社交ダンスにはいくつかの特徴があります。それは、二人がカップルに成って踊る、そして、いくつかのカップルが同じ場と同じ音楽を共有する。ですから社交を目的としない競技ダンスでも何組かが同じ場所と同じ音楽を共有して、試合を行い、その中で比較対象されて優劣が付きます。

ましてや、社交を目的としているダンスはこのことが最も重要です。ですからこの事を除外して、いくらベーシックステップを暗記しようと、ベーシックムーヴメントを訓練しようと、相手とも、また、音楽と場を共有している他のカップルとも上手く踊れなかったりします。すると又ルーティンを統一しょうなどという事が起こるわけです。


現状の日本人を支配している考え方は、全て数値で物事を計り、正しい事を追求します。そして他との比較によってのみ判断が出来ます。

上手とか、気持ちいいとか、楽しいとか、幸せ、とかも全て数値に置き換え、他との比較によってのみ判断します。 残念な事に、目に見える尺度でしか物事を計れないのです。


本来本人が味わうもの即ちソフトが数値や量や大きさや早さなどという目に見える物でしか判断できないのです。そして正しい事が一つに成ります。

何に対して、誰に対して、何について正しいのか等と言うことは考えません。楽しいとか、気持ちいいとか、幸せかどうかなどと言うものは千差万別。個人よってそう感じられるかどうかによるのですが、数値や量が達してればそう成ると信じているのです。

ダンスに於いて最も最優先されるべき、相手と踊る、相手に対する触り方、相手にとって心地良い接触とは何か、相手と共有するリズムと揺れ等は殆んど眼中になく、ひたすらステップの量や形を追い求めます。

簡単に言えば踊って二人が気持ち良いかどうかよりも、他人からの評価や成績やランクを重要視します。 生徒さんやお客さんがそれを求めれば、顧客のニーズがあれば、売る方、教える方もそれに流されます。


需要と供給の問題です。 日本を幸せにする為にそこを変えなければ成りません。日本人の頭の改革が必要なのです。我々のダンスの思いはやがて日本人の意思改革へと続くでしょう。 大きな使命と役割を我々が担うという自負をもって国際ダンス本部は進まなければ成りません。今年こそその節目の年にしたいものです

2005年1月