助川友朗のエッセイ集

tomo essay

08 浜田先生の遺したもの



我々が、ダンススポーツ部門と分離して、ダンス教師の団体として活動し始めてから、国際ダンス本部の代表を浜田先生になっていただいて、15~16年の歳月が経ちました。

一般的に日本のダンスの先生は、競技会の運営・成績には非常に夢中になりますが、何故か生活の基盤であるダンスを教えることについては興味を持ちません。私達の不満はそこにありました。 そんな中にあって、浜田先生は旧NATD(日本舞踏教師協会)の理事等の立場から、ダンスとは何か?人間は何故ダンスをするのか?ダンス界に投げかけてきました。

我々は浜田先生が我々に言いたかったことの一つ一つをもう一度考える必要があると思います。 ずいぶん昔になりますが、浜田先生と最初にヨーロッパ(オランダ・ドイツ)のダンス教室を視察旅行に行った折に、色々とお話をしたことがあります。

「こちらのダンス教室は、全部グループレッスンですね?」私の単純な質問でした。
「そうだよ、だから、こちら(ヨーロッパ各国)のダンス教師の資格試験の内容は、団体レッスンをする前提で行われるんだよ、日本の某有名教師が、英国でダンス教師試験を受験したら、声が小さいという理由で最初に落とされたの知ってるよね」 「何で日本だけ個人レッスン中心になったのですかね?」また、私の単純な質問です。

「結局、お客さんが少ないから、単価を上げるしかなかったんだよ」 「そうか~、でも、何故、(浜田)先生は読売・日本テレビカルチャーでのグループレッスンが仕事の大半になったのですか?」かねてから私の浜田先生に聞きたい内容でした。

「ダンスを教えて食べているなんて、いい加減なものを教えているというコンプレックスが僕には常にあるんだよ、個人レッスンで直接お客様から、チケットなり金銭をもらうのに抵抗があるんだな」浜田先生の素直な回答でした。

続けて 「その点、カルチャースクール等で教えて、対価を得るほうが、はるかに抵抗感がないんだな。で、このコンプレックスが、日本のダンスを競技スタイルに変える大きな原因だと思うんだ。日本で唯一コンプレックスを持たない先生は友朗さんだけだから理解できないかもしれないけどね」

そして独り言のように、 「こうやって、ヨーロッパの各国の教室を観ると、ダンスのレッスンメニューは団体レッスン用になってるなあ~」
「しかし、初心者にどうやったらダンスを理解してもらえるか、自分なりに試行錯誤してきたけど、コチラ(ヨーロッパ)のレッスンを目の当たりにすると、目からうろこだな~、衝撃を受けるよ」 最後にこう付け加えました。

「日本のダンスの先生は何十年も遅れちゃったなー、我々ががんばらないと」 このヨーロッパ視察旅行から、我々AJDT/IDC国際ダンス本部の活動方向、活動目標が明確になり、私たちの挑戦が始まりました。 それは、ダンス教師の意識改革にほかなりません。

戦前、何回かのダンスブームらしきものがあり、多少ダンスが市民権を得てきたとはいえ、それ専門で食べていけるような、ダンサーなり、ダンス教師が確立していたとは思えません。 戦後、進駐軍と共に日本に上陸した洋楽は若者を虜にし、ジルバとマンボによってダンスホールが全国いたるところに乱立し一大ブームと成り人々はダンスの魅力に取りつかれました。


ダンスのお相手をすることとダンスを教える職業が出現します。そして、前述のコンプレックスと相まって、競技システムと清く正しいダンススタイルが日本のスタイルとなっていきます。 戦後の混乱期から、世の中が落ち着いてきて、ダンスで遊ぶところと、習うところの分離が進みだし、ダンス教室が成り立つようになってきます。


ダンス教室での「習い事」としてのダンスが進みだします。演技発表会がダンス教室主催のパーティとして定着していく中で、ダンス教室でのレッスンは演技発表する為の内容に変化していきます。 浜田先生の活動が団体レッスンに移行していく時期に、世間ではダンス教師が食べていく最良の方法、即ちデモンストレーションシステムが確立していきます。


浜田先生が戦後直ぐに北海道から上京し、中学の先輩である私の父に師事し、枡岡先生達と助川ダンス教室で肩を並べ、青春時代をダンスで明け暮れ、中年にさしかかりダンスの普及広報活動をする立場になったときに、もう一度、ダンスとは何かについて考えたのだと思います。


どうしたら楽しく踊れるようになるのか、相手に好かれる人にはどうすればなれるのか、踊る心とは何なんだろう、ダンスは上手くなければ楽しむことは出来ないのだろうか、常に好奇心と探究心を持ち続けた先生は最後までその答えを探していたように思います。


我々とヨーロッパへ視察旅行へ行く以前にも、先生はブラックプールをはじめとして何回か海外の有名な選手権は見に行かれています。しかしそこでは、先生の望む答えには出会っていませんでした。 先生の描いていた世界とは、社交ダンスが踊られる社会、普通のダンスが普通に踊られる社会なのです。

そのために我々は何が出来るかなのです。 理事会等を通じて先生は我々に幾つかの名言を残しています。 浜田先生の話を引用します。


「ダンスを楽しむには、①相手がいて、②音楽があって、③スペース(場)があって、④それらを得る為の経済的背景、それに⑤ほんの少しの踊る技術があればいいのです。しかしこれらが備わってももう一つ大変重要なものがあります。それは⑥精神的開放です。 この⑥番目の精神的開放がなければ他の5つの要素があってもダンスは楽しむことは出来ないのです。」

「私たちはこの要素のほんの少しのダンスの技術を提供しているだけです。それなのに、このほんの少しの技術の提供が、もっとも重要な精神的開放を妨げるのであれば、皆さん(ダンス教師)が人々のダンスを楽しむのを妨げていることになってしまいます。」 「我々は、日々戦っていなければなりません。お客さん(生徒さん)は日々質問してきます。『この場合手はどうすのですか?』『顔の向きは?』、我々はつい先生として『そんなことも知らないのですか?』と思われるのではないかと思い、答えを言ってしまいます。


しかし、その場での一言が固定観念を与え、一人歩きをして殆どよい結果を生みません。 我々は答えてはいけないのです。教えるということはそういうことです。」 「僕(浜田先生)は、フットワークなど教えない。少し踊れるようになるとお客様(生徒さん)は色々のところへ顔を出します。突然下手になって帰ってきます。


良く聞くとフットワークを習ってきます。フットワークを習ってくると当然下手になって帰ってくるのです。」 「ヨーロッパでのレッスンで、ホールドなど直しているところに遭遇したことがありません。だから皆自然に踊っている。日本人のダンスの一番変なところは、不自然に見えるところです。


下手は下手なりのホールドであるはずなのに、日本人はホールドだけが高い、それが正しいと習っている、教えているから始末に悪いのです。」 「日本人のダンスはどうして乱暴なのだろう?ダンスは感応的同調なのに、相手、場所、雰囲気に何故対応できないのだろう。」 「日本人はテクニックをルールと考える。だから、踊っている時に指示語が多い。


これは普段のレッスンでも、先生が生徒に指示語を使うからです。」 「この頃のお客さんは、ダンスパーティに行かないし、喜ばない。昔は普通ダンスが踊れるようになると喜々としていったもんだけどな~。困った風潮だよね。」 ・・・・・・・・・等々 我々は、浜田先生や関西大学の永井先生を含めて、社交ダンスの定義を議論しました。


社交ダンスとは、①誰とでも、②何処でも、③どんな音楽でも、踊ることが出来るものをさす。 競技で踊るダンスも、デモンストレーションで踊るダンスでも、その範囲の中にあるべきものである。私たちの得た結論でした。


しかしながら、 日本のダンス界が、世界では例を見ない個人レッスンを中心に発達していく過程で、ダンス教室でのレッスンの内容が、演技発表を目的とする内容に変貌していきました。他方で、昭和40年代から爆発的に発展した公民館でのダンスは、ダンス教室で供したデモンストレーションを目的としたダンスを中心にすえ、これまた日本でのみ生まれた競技システム(クラス戦)がマッチし、公民館ダンスの誰とでも踊りたい願望で集まってきた人々に、正しいダンスとして、演技発表競技会スタイルの内容になります。


10段階にまでなった敗者復活戦のアマチュア競技会システムは、階段を一つ一つ上る面白さと他人の異性と踊るやましいことをしているというコンプレックスを取り除いてくれたのです。 いつ時の間にか、相手と踊る意識より、綺麗に上手く見え、競技会で勝てるように踊る意識が、清く正しいに変わっていくのです。


ダンス教室での、デモントレーションで踊るダンスのレッスンと、公民館での誰でも参加できる競技会向け清く正しいレッスンの発展はわるいことばかりではありません。ダンス界に膨大な利益をもたらし、ダンスの大衆化に貢献したのです。


しかしながら、日本では、「社交ダンス」の文字と、ダンスを通じて「遊ぶこと」は消滅していったのです。全国のダンスホールは消え、ナイトクラブもダンスパーティも消えてしまったのです。 戦後、65年のダンス界の歩みと、浜田先生がダンスに関わった歴史は、今考えると見事に一致します。


日本のダンス界の大きなターニングポイントになった、昭和29年、当時の英国チャンピオン・スクリブナー氏の招聘も、昭和44年の日本武道館での日本で初めての世界選手権の開催も、JBDFの設立も、JDSFの発展も、見事に符合するのです。

終戦から約20年は、混乱と開放と模索が続き、遊びごとと習いものとしての分離と方向性とシステムが確立していきます。レッスンのメニューも競技会の段階化も進みます。 そこからの約20年は、日本化したシステムの乗って、日本の「シャコーダンス」発展と成長と大衆化が進みました。


しかしながら、昭和60年代になると、日本化したシステムや、やり方にかげりがみえ始め、次の停滞・衰退の20年の始まりでした。昭和の終わりから、平成の時代は、ダンス人口の高齢化が一気にすすみ、変な高齢者のスポーツと化した日本のダンスは還暦過ぎの現役選手で溢れかえり、教え魔や感じの悪い応対は当たり前のようになり、特殊なものとして扱われ始めています。


コミュニケーションや楽しさはどこかにいってしまいました。 この中で、浜田先生だけが、読売・日本テレビカルチャーをホームグランドに、グループレッスン(団体レッスン)のやり方、教え方、レッスン内容を確立しつつダンスの原点に帰り、ダンス普及に努めてきました。


浜田先生の中では、ダンスは一つでありました。競技ダンスもデモンストレーションダンスも社交ダンスも同じで一つでした。 社交ダンスを真に理解することが、競技ダンスも上手くなる近道であることを浜田先生はうったえていました。

停滞と衰退の20年後に来る新たな時代に差し掛かった今、我々は「新しい社交ダンス」を提案しています。 遊びの心を忘れない、人と人が触れ合い、人に、相手に好かれることこそが「上手い」の原点であることをもういちど皆さんに問いかけたいのです。 ダンスは人間が生きていく為の「ソフト」のひとつなのです。


肩書きや「級」や「ランク」で相手を判断するのではなく、踊った相手に自分に忠実に判断をする。 「ハード」のダンスはもう終わりが来ているのです。求めるものは、強さや、速さや、大きさやかたちではないのです。


争うことが嫌いな浜田先生は、感じよさ、心地よさこそダンスの原点であるとあの優しい目で語りかけているのです。